「花岡ものがたり」について 

 1950年版画運動協会による共同製作として「花岡ものがたり」が生まれた。その年、朝鮮戦争が火を噴き、第三次世界大戦は必至という状況であった。「花岡ものがたり」は日中戦争下の暗黒の時代を、日本の敗戦によって乗り越えた時点での作品であり、その製作には多くの中国関係者が関わっていた。生前の魯迅と交流があり、その死に立ち会った日本人、後に抗戦中国の立場に立ち日本人民反戦同盟の中心に居た池田幸子さん(魯迅の死後20年、『その温容は今もなお生けるが如く』と私宛の手紙に書いている)が、「中国で出されている、労働者農民のポケットに入るような連環画形式の本を」と提案し、それを受けた北村孫盛氏(沖縄出身で日教組を組織した人、沖縄姓安室、後に奈良氏)が企画し、内山嘉吉氏(内山完造氏の弟で1935年魯迅の依頼で中国の青年達に初歩的な版画製作を指導した)が、桜の版木を調達したのであった。
 魯迅の指導した版画運動は抗日戦争下、民族を立ち上がらせる大きな役割を果たした。「抗戦下の中国の版画」展は日本の各地で行われ、それは技術的に進んでいると考えていた日本の版画界に大きな衝撃を与え、版画運動協会は、その魯迅の生み出した版画運動の時代を切り開く役割を担おうとし、その課題は「花岡ものがたり」として結実したといえよう。
 池田さんの家はその出版の基地となり、池田さんと鹿地亘氏の娘は、当時小学校高学年であったが、その絵本を学校で売って一冊につき何円かの小遣いをもらったという逸話もある。
 アメリカ占領下の日本では、中国は朝鮮戦争を介して敵対関係にあり、「花岡ものがたり」の出版自体も半合法状態で、版木もその印刷後は密かに秋田に移されたのである。
 技術的には、その出版は活字と共に版木を直接機械刷りした版画作品集であり、当時の粗悪な紙であっても時代の要請に応えた芸術作品として出版史上最高の位置に置かれるものである。作品も又その時代の緊張と希望が織りなす生命感に溢れている。当時は今のような事件の詳細な研究が為されていなかったとはいえ、その時点で明らかであった情報を最高度に生かし、その本質を描き上げたことによって中国でも高い評価を得、日中文化交流の典型として中国において中国語版が出版されたのである。
 「花岡ものがたり」は、出版の時点で半合法の性格のものであった関係から版権が問われず、その後いくつかの出版が行われたが、その出版のオーナーであった北村氏は版権を主張することなくかえってそれが出版されたことを喜んでいた。 かつて魯迅は時代の要請に応じて自ら出版した本のあとがきに「版権を無視して出版することを歓迎する」と書いたが、北村氏の態度は期せずして魯迅の態度であったことを、今懐かしく思い出す。
 北村氏は「花岡ものがたり」に続いて「ピカドン」を出版したが、発売と同時に占領軍に没収の憂き目にあった、「その時に既に大半は人民の手に渡っていた」と言っていた。思えばそれは第三次世界大戦必至の状況下で、戦争に反対し、平和を求める人民の闘いの記念碑である。その生命力は永遠であり、見るたびに青春の息吹が甦るのは、その証であろう。初版の機械刷り版画集を求めるのは至難のわざであるが、再刊本を通じてその志を多くの人々が汲み取られんことを心から願う。
                2006年6月5日 町田忠昭